倭文地区の歴史と文化
岡山県津山市の倭文地区は、出雲街道から南下する159号線付近の「神代」から美咲町境の「福田下」、東は「油木上」、西は「戸脇」の一帯を指します。
「倭文」は「しとり」と読みますが、平成の市町村合併後改名され、残念なことに地図上からは消えることとなってしまいました。
しかしながら、この倭文地区にはその名と共に積み重ねられてきた長い歴史と文化があります。
ひとつひとつの歴史と文化の伝承、歴史文化財の保全などの活動を通じ、私達はそれを後世に伝承していくことが務めであると感じています。
●賀茂競馬(かも くらべうま)
賀茂競馬(かもくらべうま)は京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)で1093年に天下泰平・五穀豊穣祈願のために始まった神事です。
5月1日に一頭ずつ馬を走らせ、その遅速により馬を決める足汰(あしぞろえ)式と、5月5日に番(つがい・二頭)で走らせる競馬会で構成されています。
倭文地区は平安時代中期に上賀茂神社の荘園になり、この競馬会に野生馬を寄進し、かつ倭文庄の馬が賀茂競馬では一番重要視されています。
●幻の織物「倭文織」
倭文地区は幻の織物「倭文織(しづおり)」の生産地です。
倭文織は全国的に生産され、その場所には同じく「倭文」という地名が使われていますが、徐々に生産量が減り、平安時代の終わりには姿を消したと考えられています。
生産されなくなった倭文織がどのような織物であったのかは、現物が存在しないため明確ではありません。
正倉院文書(757年)、倭文神社(油木北)「延喜式(927年~967年)などの史料から当時の生産様式、倭文織の状態などを推測し、現在その再現に努めています。
●糘山史跡 ― 久米郡内最大級の遺跡群
糘山(スクモヤマ)史跡は倭文地区全体に点在しています。
約120基の古墳と21か所の古代集落跡、日本最古級の製鉄遺構とそれに伴う100本近い鉄穴流しの遺構などがあり、県下でも有数の遺跡密集地となっています。
なかでも、「金鋳場1号墳」「長者屋敷」「地蔵二つ塚古墳」「観音免古墳」「城﨏上一号墳」「荒神西古墳」「七つ塚古墳群」「牛岩遺跡」「リンバーグ岩」は市指定文化財となっています。